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教え方がうまいというのが単に「知識がある」ということではなくむしろ「よい方法」で教授できることなのだというのは重要だと思った。どれだけ多くを知っていてもただ伝えるだけでは効果がなく、生徒にとって理解されやすい方法でないといけないのだと分かった。大学の教授と高校の教師の違いもここにあるのだろうかと思う。私が思うに大学の教授は知識はあるがそれが理解されやすいかというと難しいことがあると思う。高校の教師は大学ほどの高いレベルの知識が求められるわけではないが理解できるように工夫がなされていると感じていた。もちろん大学の教授でも分かりやすい場合・高校の教師でも分かりにくい場合もあるが、高校の教師はわかりやすく教えるということに重きを置いているのではないかと思う。また、アクティブラーニングがよい方法であるとされていることについても疑問に感じた。数学でアクティブラーニングの取り組みとしてグループワークを毎回のように行っている授業を受けたことがあるが、それで理解に結び付いたかと聞かれるとそうでもなかったように思う。習熟度別にクラス編成がなされていたが、個人によって進捗に差が出てしまうし、話し合うというよりもだべるだけになってしまっていた。そうなるくらいであれば、教師が一斉教授によって教えてしまったほうが無駄なく教えられるのではないだろうか。一斉教授というのも完全に一方通行のものではなく、IREシーケンスを用いて生徒にときどき問いかけることによって、その時点では相互のコミュニケーションができているわけである。教育方法論が相互行為論と言われるのも教育というのが一方的に行われるものではなく、教師と生徒が相互に作用しあって成り立つものだということを示しているのであろう。その上で、相互行為を分析するということは、私たちがこれまで受けてきたような教育を客観的に見直すということになり、その点でかなり意味を持つのだろう。実際の授業を動画撮影しそれをトランスクリプトで表現していたが、この見方が私にとってかなり新鮮であった。単に授業を傍観するだけでは、その教育方法というのが当たり前すぎて気づけないことでも、トランスクリプトで見てみると明確に理解されるのである。社会科学というのは自然科学と異なり遡及的に考えることが多いため、前もってどういう結果が生じるかが予測が難しいためその後に分析をして適切に修正されていかなければいけないと思うので、これを分析することは大事だと思った。

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板橋丼(Itabashi-don)

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