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私は初等理科指導法の講義を通して、授業とは教師と児童との対話の場であるということ、またそれらの対話によって、児童だけでなく教師自身も成長することができるということが、もっとも重要なポイントであると考える。

私がそう考える根拠を述べるにあたって、「教員」が持っている専門性と「授業」の意義について考えたい。インターネットの台頭などにより、ICT技術の発展以前と比べて、私たちは自由に情報を手に入れることができるようになった。そのためか、世間には徐々に「私たち人類は、小学校・中学校のような教育の場に通わずとも、やる気と熱意さえ伴えば、一人で自由に勉強することができる」という考えを持つ人が多くなってきているように感じる。しかし実際には、インターネットや書籍から膨大な量の情報を得ることができたとしても、それらを取捨選択することができないということ、またデバイスを有していない、近隣に図書館がないなど、そもそも様々な情報にアクセスできる機会がないということも考えられる。情報を整理することができないということは、いくら学習の主体である児童が、何らかの課題に対して疑問や問いを設定して素朴概念を身につけようとしても、十分に応えることのできるモノがなければ、学習としての効果は薄い。またLetrud(2012)によると、Edgar Dale Dryden Pressから1954年に出版された『Audio-Visual Methods in Teaching』に記載されているラーニング・ピラミッドでは、100%を最大としたときに、読書による学習効果は10%であるのに対し、ディスカッションでは50%、他者への教授では90%の学習効果があるとされている。つまり学習活動における学習効果は、自己でのインプット活動と比べると、他者へのアウトプット活動のほうが大きく、相互に関わることのできるヒトがいなければ、学習としての効果は薄い。

このことを踏まえて、私は「教師」の専門性と「授業」の意義について、児童同士の対話を促す活動等によって高い学習効果を持った学習活動を構成するなど、高い専門性を持つ「教師」という存在を通して、義務教育として位置づけられており、誰でもアクセスすることのできる、広く一般に開かれている機会として「授業」を教授することができると考える。またパフォーマンス課題の設定等を通じて、児童同士だけでなく教師と児童との対話場面を設けることによって、児童のフィードバックの機会を増やすだけでなく、教師自身も児童からのフィードバックを受け取って成長・改善していくことによって、求められている専門性にますます応えることが必要なのではないかと感じた。

【参考文献】
Kåre Letrud (2012). A rebuttal of NTL Institute's learning pyramid. Retrieved from researchgate.net/publication/2 (August 3, 2022)

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