もともとtwitterは(言語の壁を除いて)フラットな構造で、境界のあいまいなコミュニティの自由な生成を許していた一方、それがゆえに相容れないコミュニティの接触(と、衝突への発展)が制御できず、激しい火災が多発して、不寛容を含む各種の思想が可視化されてしまったと。結果的にはリベラリズムの思想が運営へ道義上の責任を問い始め、最終的には「たかだかマイクロブログの運営社」が社会理念レベルの価値観選択を迫られた挙句、裁判官でもないのに運用面での有言実行を余儀なくされている……というかわいそうな状態なのかもしれない。